苫米地氏の「とてつもない未来を引き寄せる予見力」を読んでみました。
かなえたい未来がある方、未来ってどんな風になるんだろうと疑問を持っている方は、是非読んでみて欲しいと思います。
未来への種を見つける
本書の内容について、詳細は、もちろん本書を読んでみていただければいいのですが、管理人なりに解釈したところをまとてめみます。
通常、人は、過去にこういう出来事が起こったから、現在こうなったという因果関係の世界で生きている人がほとんどだと思います。
つまり、過去が原因で現在があると。
しかし、苫米地氏の本では、たびたび時間は、未来から過去へ流れていることが強調されます。
本書では、起点を未来に起き、視点を変えることで、未来へつながるための種を現在に見つけ、未来へとつなげていくことができるのだ、ということを書いてあるのだと思います。
脳は、フル回転すると、莫大なエネルギーを消費するので、通常は意識したものしか、意識にのぼってこないようにストッパーがかかっています。
なので、過去を起点にした考え方だと、過去を超えることは出来ない。
望む未来に意識を集中すると、その未来へと至る道を無意識のうちにも、脳が選り分けてくれる、ということなのかな、と。
人間とは何か?
本書には、苫米地氏に見えている未来も書かれています。
さらに、
人間とは何か?
生命とはなにか?
という究極の問題も提示されています。
「我思う、ゆえに我あり」と言ったのは、デカルトですが、管理人は、この言葉が再び多くの人に意味を持つ未来が到来することもありうると思います。
SF映画で人間がサイボーグ化されたり、コンピューターが知性を持つ未来は繰り返し描かれてきていますが、それは絵空事とは言い切れない進化が始まっているように思います。
コンピューターが知性を持てば、やがて人間を凌駕していくことでしょう。
もしかすると、コンピューターは人間が新たに生み出した進化の種なのもしれない、と思うことがあります。
地球と同じ環境がなくては生きていけない人間に比べ、機械がボディのコンピューターは、やすやすと宇宙へ出て行くことが出来るでしょう。
コンピューターが知性を獲得し、思考する存在になった時、あるいは、人間が今のままの人間でなくなった時、「我思う、ゆえに我あり」と定義したデカルトのその言葉がどういう意味を持って、私たち人類に迫ってくるのか。
管理人は時々考えることがあります。
この世界が本当にマトリクスのような世界だったら自分はどうするか?
あるいは、誰かに与えられたかりそめの命だったら?
わたしはそれでも絶望したくない、と思います。
わたしが生きる意味はわたしの中にある。
たとえ誰かに与えられた命であっても、わたしがここに存在して思考する限り、わたしはわたしの命を生きようと思うのです。
そんなことを久しぶりに考えさせられた一冊でした。
オススメ!